歴史


平野口留番所址

 山中湖村は、駿河(静岡県)と相模(神奈川県)の両県境に位置していたため、甲斐(山梨県)・駿河・相模の三つの国を結ぶ交通上、軍事上の要地でした。その裏付けとなるものとして、平野と山中地区に領内への人や物資の出入りを取り締まった口留め番所址が残っており、村の文化財に指定されています。武田晴信(信玄)公が活躍していた戦国期の頃は、山中村と平野村に分かれており、その後、平野村から長池村が独立し、山中村、平野村、長池村の三つに分かれていました。
 江戸期の寛文9(1669)年の検地の資料によると、この三村の石高が近隣の村々に比べて少なく、もともとこの地域が高冷地で火山灰土であり土地の生産性が低かったことが分かります。それゆえ、生業は、山の木を切り売ったり、山で炭を焼いたりしてお金に換える山稼ぎや、馬による荷物運搬(駄賃づけ)で生計を立てていました。


山中口留番所址

 明治に入ると廃藩置県が行われ、この地方制度改革に合わせて、明治8(1875)年、山中、平野、長池の三つの村は一つに合併し「中野村」となりました。大正6(1917)年頃から富士山北麓地域の開発が始まり、この頃から外国人客を中心に高原避暑地として人気を集めるようになりました。昭和の時代に入ってからは、道路の整備が進むにつれて近郊から車で観光に訪れる人が飛躍的に増加し、戦後の高度経済成長にともなう国民のレジャー指向の高まりによって、昭和35(1960)年頃から観光地として注目を浴びるようになりました。このことは、高冷地ゆえの生産性の低い農林業から、高冷地を活かした高原リゾート型の観光業への転換をもたらしました。
 昭和40(1965)年、観光立村としての立場を明確にし、観光地として更なる発展を願い、湖の名にちなんで、中野村から現在の「山中湖村」へと村名を変更しました。

山中湖村教育委員会
猪越由美子



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